2012年1月7日 星期六

水門と樋門・樋管の違い


水門と樋門・樋管の違い

 私達が普段、水門と呼ぶものは(日常の会話では水門なんて話題にならないかな)、土木の世界では
 水門、樋門・樋管、堰、伏越、掛樋、閘門と機能や構造で細かく分類されています。
 これらは、以下の目的で河川や用水路、溜池に設置される土木の水利構造物です。
 ~ 用水の取水、内水の排除、洪水の逆流防止、潮止め、河川の上下を水路が横断、船舶の航行、等 ~
 目的や用途に応じて施設の構造は異なり、さまざまなゲート(門扉)が取り付けられています。
水門
水門(上流から撮影)福川水門(埼玉県行田市、福川)
利根川への合流地点から700m上流に
設けられた逆流防止水門

樋管
取水樋管(右岸堤防から撮影)酒巻導水路樋管(埼玉県行田市、福川)
堤防の中に水路が埋設されていて、
矢印の方向へ農業用水を取水している。

堰
堰(上流から撮影)
古笊田堰(埼玉県久喜市、備前堀川)
埼玉県現存最大の煉瓦堰

門樋
門樋(川表:下流から撮影)
永府門樋(埼玉県吉見町、市野川用水)
伏越
伏越(下流から撮影)
小針落伏越(埼玉県行田市~川里町)
旧忍川の下を野通川が横断している

通潤橋
掛樋(水路橋):
通潤橋(熊本県)
アーチ橋の中に水路が埋設されている
水門(すいもん)は、橋のように堤防の両岸に渡って設けられることが多く、
規模の大きな施設です。水の進入を防ぐ水門には、逆流防止水門(本川の
洪水が支川に流入するのを防ぐ)や防潮水門(海水が河川に侵入するのを
防ぐ)、水位を調節する水門には制水門や閘門(lock gate)があります。
水門と外観がよく似た施設に、可動堰(かどうぜき)というのがあります。
その大雑把な識別法は、洪水の時にゲートが閉められていれば水門、
全開していれば可動堰です(笑)。水門は洪水の時に堤防の代わりとなる、
治水施設です。可動堰は利水施設の場合が多いのですが、
可動堰でも農業用水の取水堰は、頭首工(とうしゅこう)と呼ばれることが
多いので区分はさらに複雑です。頭首工とはheadworksの迷訳で、
headは水理学では水のエネルギー(水頭:水面の高さ、圧力、速度で
規定される)を指します。worksとは構造物や施設のことです。
いずれにせよ、水門とはゲートで水をせき止めることによって水位を
調節をする施設と定義できます。
なお、水門という名称が普及したのは、昭和になってからのようです。
大正期までは、門樋(もんぴ)や堰(現代とは機能が異なる:堰枠、関枠、
閘門)と呼ばれました。門樋と堰は外見や構造には大差はなく、
違いは取り付けられたゲートの形式のみです。この頃のゲートは
現在のように動力制御ではなく、門樋では観音戸や合掌戸、堰では木製の
堰板(はめ込み式)やスルースゲート(引き上げ式)が主流でした。

樋門(ひもん)樋管(ひかん)は、河川や用水路でよく見かける施設で、
用水の取水や内水の排除を目的としています。
外観は水門に似ていますが(→樋門各部の名称)、見た目の規模は
小さく、水門との大きな違いは、樋門・樋管は堤防の中に
水路(これが本体)が埋設されていることです。直感的な表現をすれば、
土手(堤防)に埋め込まれた水が流れるトンネルとも言えます。
水路には普段は水が流れています(取水樋門は川から水路の方向へ、
排水樋門は水路から川の方向へ)。しかし、洪水時(川が増水した時)には
水路に付けられたゲートが閉められ、これによって堤防と一体となって、
洪水が堤内地(住宅地のある側)へ流入してくるのを防ぎます。(→
樋門と樋管には厳密な区別はありませんが、規模が小さい場合は
樋管と呼ばれることが多いようです。水路の断面が円形なら樋管!と
主張する人もいます。個人的には樋管よりも樋門の方が樋:水路、
門:ゲートと施設の形態をよく表していると思います。
古い施設では、圦(いり)、樋(ひ、とい)、圦樋(いりひ、いりとい)、樋閘(ひこう)
水閘(すいこう)、逃樋(にげひ、とうひ?)と名付けられているものもあります。
この閘という漢字はゲートを表しています。ということは閘門って変?
なお、古い施設は名前は樋管であっても、機能的には、函渠(カルバート)、
分水工、余水吐(逃樋)であることもしばしばです。
埼玉県では樋門という名称は、明治時代にはほとんど使われませんでした。
樋門は大正以降に台頭したようです(笑)→男沼樋門福川樋門

門樋(もんぴ)は、逆除(さかよけ)や逆除堰(さかよけせき)も呼ばれました。
逆流防止水門(→の昔風の呼びかたですが、今ではこれらの名称が
使われることは、ほとんどありません。紛らわしいことに、門扉(ゲート)を
備えた施設であれば機能に関係なく、門樋と表記することもあったようです。
門樋は機能的には水門の一種ですから、樋門・樋管に較べて、通水路は
短く断面が大きいのが特徴です。また、逆流防止のために川と川が合流する
付近に設置されるので、橋の役目を兼ねることも多く、橋梁を意識した
デザインや凝った意匠(レンガを組み合わせた装飾、塔、擬宝珠、等)の
施設も見られます。門樋には観音戸(観音開きのゲート:マイターゲート)が
取り付けられることが多かったのですが、これは大きな通水断面に
合わせたスルースゲートだと、人力で引き上げ操作ができなかったからです。
観音開きのゲートは、本川の水位と流水の勢いに反応して自動的に
開閉する構造になっています。一方、スルースゲートは随意的な操作と
微妙な水量調節が可能ですが、人力で操作するので大きさが制限されます。
このため、大きな施設に人力で操作するゲートを設置する場合には、
多連アーチにして通水断面を分割したようです。→倉松落大口逆除

伏越(ふせごし)は、川と川(あるいは水路)が交差する地点に設けられる施設です。
川の下を潜って横断する水路トンネルのことで、昔は埋樋とも呼ばれました。
現代では逆サイフォンともいいます。反対に川の上を跨ぐ施設は掛樋や掛渡井
架樋(かけとい)と呼ばれました。これは現代の水路橋のことです。水路橋で
水路が管(パイプ)のものは水管橋と呼ばれます。水路橋と水管橋の違いは、
水路橋は開水路(蓋のない水路)、水管橋は管路(パイプ)で圧力がかかることです。
日本で一番有名な水路橋は、安政元年(1854)に肥後の国(現.熊本県)に
建設された通潤橋でしょう。通潤橋は日本最大規模の石造りアーチ橋で、
しかも水管橋という極めて珍しい橋です。左の写真では、橋の脇から水が
吹き出ていますが、これは橋の維持管理のための安全装置であり、
建設当初から付けられています。
 現代では、以上の施設は鉄筋コンクリートで建設されますが(コンクリート以外は河川構造令で禁止されている)、
 明治~大正時代には、日本各地で様々な材料を使って作られました。全国的には木や石が多いのですが、
 関東地方(埼玉県、茨城県に多い)のレンガ、中部地方(岐阜県、愛知県に多い)のタタキ(.石灰に花崗岩を
 混ぜた人造石)、岡山県と熊本県の石が、地域の特色を生かしたものです。
 明治期において上述した各県は、樋門建造に関しては先進的な技術を誇り、全国的に名を馳せていたようです。
 明治29年(1896)に愛知県が発行した樋管の設計基準書:改良樋管設計書(→文献60には、
 他県の樋管建造例として、埼玉、岐阜、三重、徳島、熊本の5県の仕様書と設計図が紹介されています。

 補足:レンガが明治時代の代表的な土木材料だったこと、そして現代の土木施設ではレンガは
 構造材として使うことは禁止されており、装飾材としての価値しかないことを認識している人は少ない。

(注)洪水時に本川の水位が高くなると、洪水流が支川へ逆流してくることがあります。
 支川は本川よりも流域面積が小さく流路も短いので、一般的に洪水時には支川の水位は
 本川よりも早い時刻に最高水位に達します。そして、支川は水位の低下も早いので、
 本川が最高水位に到達した頃には、水位は本川よりも低くなっています。
 この状態では本川から支川へ向かって、洪水が逆流入する可能性があります。

 門樋は本川からの洪水の逆流入を防ぐために、支川に設けられた施設です。
 支川の出口(本川へ合流する付近)にゲートで蓋をしてしまう仕組みですから、最も危険な
 本川洪水の流入が防げます。支川へ本川の洪水が大量に流れ込んでくると、支川の洪水は
 せき止められて流れにくくなってしまいます。さらに本川の洪水まで加わるので、
 支川の水位は急激に高くなってしまいます。一般に支川の堤防は本川の堤防よりも規模が
 小さいので、水が堤防から溢れたり、最悪の場合は支川の堤防が破壊されてしまいます。
 門樋はそれらを未然に防げるのですが、問題点はゲートを閉めている間は
 内水(支川の洪水や流域の雨水)の排除が不可能になることです。
 つまり、門樋では多少の犠牲(家屋の浸水や農地の冠水等)と引き換えに、内水は洪水が
 治まってから(本川の水位が低下してから)、自然排水していました。しかし、一般的に
 本川の洪水継続時間は支川よりも長いので、本川の水位はなかなか低下しませんでした。
 そのため、門樋の存在と運用によって、内水の湛水継続時間は長期化する傾向がありました。

 ゲートをいつ開閉させるかの判断には、その川の洪水流出特性を熟知していることに加え、
 経験と勘が必要なので、ゲートの操作は水防組合や水利組合などに属する専任の人が担当しました。
 特に大きな川や排水路の場合、その関係町村の区域が広いので(洪水の影響も広範囲に及ぶ)、
 洪水時のゲート操作に関しては、村々間で種々の規約などが取り交わされていました。
 最下流に位置する村の一存や都合で、勝手にゲートを操作することは許されませんでした。
 それでも自分の村が水害の危機に瀕している時には、村を守ろうとしてゲートを操作してしまうのが
 人間の性です。そしてその行為を巡って、村々の間で水論や出入りと呼ばれた水争いが勃発しました。

 昭和初期まで、ほとんどのゲートは人力操作でした。つまり、ゲートを閉じる時期の適切な判断を誤ると、
 本川の水位が上昇してしまい、ゲートには大きな水圧がかかり、人力では開閉することは
 不可能になってしまいます。また、早い時期からゲートを閉じてしまうと、支川の増水を本川へ
 排水することができないので、堤内地(住宅地の側)が湛水してしまいます。
 逆にゲートを閉じるのが遅すぎると、本川からの洪水(支川の洪水量よりも遥かに大きい)が
 堤内地へ流入してしまいます。

 現在では内水排除のために、樋門には排水機場が併設されることが多く、内水はポンプを使って、
 本川の水位に関係なく強制排水されます。見た目はポンプ場がない普通の樋門であっても、
 ゲートと水中ポンプが一体化したゲートポンプというシステムもあります。
 埼玉県では明治時代後期からは、排水機場(動力は電力ではなく蒸気機関、建物と樋門は煉瓦造り)が
 建設されています。一例として、明治40年に建設された排水機場の跡が、
 中川(北葛飾郡庄和町)にあります。また、明治40年には春山堀排水機場(元荒川、岩槻市)が
 建設されたという記録も残っています。(→埼玉新報 明治40年12月1日)

 なお、日本各地に逆川という河川や地名がありますが、その由来は、
 「かつては頻繁に洪水が本川から支川へ逆流した」が多いようです。
 渓流河川でもない限り、支川が本川へ合流する付近では、支川の勾配は緩やかです。
 そのような場合は、河床勾配に関係なく、水は高い方から低い方へ向かって流れてしまいます。

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