2012年1月21日 星期六

劇本創作



 
劇本創作
一、要素:
1.   語言:劇本是文學的一種形式
2.   故事情節:起承轉合
3.   人物:悲劇性人物、移情作用
4.   地點、佈景
5.   思想:透過戲劇,要告訴觀眾什麼?
二、撰寫要點:
1.   能夠轉化為舞台演出
2.   對戲劇相關概念了解
3.   舞台提示的運用
4.   可用即興創作方式完成
5.   戲劇高潮的掌握
6.   語言的善加運用
三、公演劇本可能的來源
1.   找已出版的劇本集:找尋與閱讀需一個月時間
2.   老師或學長姐已完成的劇本創作
3.   社員或導演自行編導創作
4.   社員、老師或學長姐即興創作:大約需二個月時間
四、劇本的形式
1.   寫實形式:寫實的表演手法
2.   史詩形式:歷史劇、人物傳記
3.   荒繆形式:劇本的思想尤其重要
4.   肢體實驗:以肢體及聲音的操弄為主體
5.   其他:如相聲劇、兒童劇、歌舞音樂劇等

導演學


 
導演學
導演(Director)
名詞:戲劇活動中的指導者(一種身分、職稱與定味)
動詞:戲劇排練過程中指揮調度工作(選角、訓練、排練、溝通協調、檢討)
導演能力
(1)對戲劇製作流程的了解(幕前、幕後、行政)(排演前、排演中、排演後)
(2)對戲劇的基本認知(戲劇史、戲劇理論、戲劇美學、各部門工作等)
(3)對戲劇文本的在理解與再詮釋(羅密歐與茱麗葉、荷珠新配、馬克白、伊底帕斯王)
(4)對人事物的看法與觀點(think why&how)(功夫得獎、金馬在基隆、國片沒落)
(5)經驗與人生體驗(我如何指導演員詮釋生死、愛情、激情等)
(6)溝通協調(有效的傳訊:幕前幕後)
(7)演員訓練(溝通、幫助入戲、戲劇指導、共同成長)
(8)舞台調度、舞台節奏與戲劇張力的掌握度(透過走位與動線的安排-動機論、潛台詞)
(9)其他美學基礎(完整畫面的呈現-聲音、視覺與思想)
導一場戲 = 戲劇意念的貫徹(透過演出,我想告訴觀眾關於什麼?)
若將戲劇之本質,比擬為一種「意念」(will)之流放,那麼一位戲劇家,必定有其思想,其創作戲劇的目的,即在於表現他對人生的看法,對人生有所發掘。於是,愈是偉大的戲劇家,愈有深刻的人生哲學。他的思想,便透過戲劇中的人物表現出來(姚一葦<戲劇原理>)
走位安排(重點:對比)
演出的主體對象為「觀眾」,因此,面向觀眾,為最好的走位安排模式(正面30度45度側面)
法則1----平衡翹翹板(左重量X距中點距離=右重量X距中點距離)
法則2----有動機才有走位(就寫實主義而言-心理醞釀)
法則3----水平對比(高>>低)
法則4----動靜對比(動>>靜)
法則5----單一/群體對比(單>>多;多>>一)
法則6----聲音對比(有聲>>無聲;特殊聲>>單純聲)
法則7----造型對比(奇特>>單調)
法則8----燈光強化(follow;spot light)
法則9----特殊處理(背台、從天而降、特殊角色)
溝通協調的重點
(1)方與圓(2)確認別人了解你的意思(3)確認你了解別人的意思(4)問題發生後有效解決

2012年1月18日 星期三

好事多磨


01.宋.晁端禮〈安公子.漸漸東風暖〉詞:「正好花前攜素手,卻雲飛雨散。是即是、從來好事多磨難。」(源)
02.《董西廂.卷一》:「真所謂佳期難得,好事多磨。」
03.明.高明《汲古閣本琵琶記.第三一齣》:「我見你每每咨嗟要調和,誰知道好事多磨起風波,把你陷在地網天羅,如何不怨我?」
04.《醒世恆言.卷三.賣油郎獨占花魁》:「佳人必須才子,方成佳配。然而好事多磨,往往求之不得。」
05.《初刻拍案驚奇.卷九》:「拜住辭謝了宣徽,回到家中,與父母說知,就擇吉日行聘,……誰知好事多磨,風雲不測,臺諫官員,看見同僉富貴豪宕,上本參論他贓私。」
06.《二刻拍案驚奇.卷二八》:「從來好事多磨,程朝奉意氣洋洋走出街來,只見一般兒朝奉姓汪的拉著他水口去看甚麼新來的表子王大捨,一把拉了就走。」
07.《聊齋志異.卷一○.葛巾》:「好事多磨,遲為鬼妒。」
08.《紅樓夢.第九○回》:「想來寶玉和姑娘必是姻緣。人家說的,『好事多磨』,又說道『是姻緣棒打不回』。這樣看起來,人心天意,他們兩個竟是天配的了。」
09.《品花寶鑑.第二二回》:「我因玉儂病重,也覺心緒不佳,總之好事多磨,是一點不錯的。」
10.《孽海花.第一六回》:「那知好事多磨,情瀾忽起。」

2012年1月12日 星期四

死生契闊,與子成說。執子之手,與子偕老。 @ Recycle的生活日記 :: 隨意窩 Xuite日誌

死生契闊,與子成說。執子之手,與子偕老。 @ Recycle的生活日記 :: 隨意窩 Xuite日誌:

《詩經·邶風·擊鼓》
擊鼓其鏜,踴躍用兵。土國城漕,我獨南行。
從孫子仲,平陳與宋。不我以歸,憂心有忡。
爰居爰處?爰喪其馬?於以求之?於林之下。
死生契闊,與子成說。執子之手,與子偕老。
于嗟闊兮,不我活兮。于嗟洵兮,不我信兮。
[譯文]
擊鼓聲鏜鏜(震於耳旁),
(將士們)奮勇演練著刀槍。
土牆和漕城修築正忙,
惟有我隨軍遠征到南方。

跟隨孫子仲(行旅奔波),
平定(作亂的)陳、宋二國,
回家的心願得不到允可,
心中鬱鬱憂愁不樂,

(我卻)身在何方,身處何地?
我的馬兒丟失在哪裡?
到哪裡(才能)將它尋覓?
到那(山間的)林泉之地。

生生死死離離合合,
(無論如何)我與你說過。
與你的雙手交相執握,
伴著你一起垂垂老去。

可歎如今散落天涯,
怕有生之年難回家鄉。
可歎如今天各一方,
令我的信約竟成了空話。
契闊:聚散。 契,合;闊,離。
成說:成言也猶言誓約。
「死生契闊,與子成說,執子之手,與子偕老」,這出自《詩經》的經典詞句描述的是一位將軍在出征前對妻子說的一番話,之所以能夠傳頌至今不在於它詞句的華麗,而是因為它體現了最為典型的中國人詮釋「愛」的方式——含蓄而堅決。這不只是一句誓言,不像「山無稜,天地合,乃敢與君絕」那樣氣勢磅礡,也不像「我永遠愛你」那樣甜蜜,而是一個樸實的承諾,在生命中的每時每刻都在兌現的一個承諾,甚至是一種行動。

台灣地震海嘯

台灣地震海嘯:

莫忘晴空湧巨浪 台灣地震海嘯

撰文/鄭吳富

 

 

「加藤港(今屏東佳冬附近)……時甚晴霽,忽海水暴吼如雷,巨浪排空,水漲數十丈,……不數刻,水暴退,……聞只淹斃一婦,……至水汐時,茅屋數椽,已無有矣。」據《台灣採訪冊》記載,公元一七八一年四至六月間(清乾隆四十六年四、五月間),屏東地區疑似遭到海嘯侵襲,中央地質所游明聖研判為遠震所致,海嘯浪高至少四至六公尺。
台灣自十七世紀中葉至十九世紀中葉,根據游明聖統計,共有六次疑似地震海嘯的紀錄,平均不到四十年即發生一次,比日本六十年一次的頻率來得高,值得我們重視。
針對一七八一年事件,前蘇聯科學通訊院士索洛維耶夫(Soloviev)等,依據荷蘭及英國資料指出,該次伴隨地震而來的海嘯肆虐台灣西南沿海,持續長達八小時,奪走四萬多居民性命,不過,死亡人數卻與台灣文獻相差懸殊。此一極富爭議性的地震海嘯,值得史家深入比對查證國內外史料。
台灣歷史上另一大型海嘯事件,就屬公元一八六七年十二月十八日(清同治六年十一月二十三日),基隆的大海嘯,災情不僅最為確定,留予世人的印象也最深刻。
當時,基隆外海地震,根據《淡水廳志》的記載,基隆、金山沿海地區「山傾地裂,海水暴漲,屋宇傾壞,溺數百人」。又阿瓦力茲(Alvarez)《福爾摩沙》(Formosa)記錄:「水又復回,來勢猛烈,船被衝出,魚亦隨之而去,沙灘上一切被沖走。」明顯可推斷出確實為地震海嘯,浪高在四至六公尺之間。
台灣自二十世紀以來,地震海嘯主要衝擊基隆和花蓮兩地。一九六○年智利地震海嘯穿越太平洋,約一公尺高的海嘯於五月二十四日,沖起浮木撞毀基隆運河的木造橋墩,災情最為顯著;一九八六年十一月十五日,花蓮外海發生地震,抵達花蓮港的海嘯浪高二公尺,而傳至日本琉球列島的海嘯則造成十六人死亡。
所謂地震海嘯,包括因地震引發海底山崩所激起的海嘯,以及海底板塊錯動,導致其中一塊板塊急遽上升或下降,迅速垂直帶動大量海水,快速傳遞至世界各海岸的海嘯。
高雄海洋科技大學海洋環境工程系教授張國棟,曾在《淺談海嘯》論文中指出,台灣因地理位置及地質結構關係,非常容易受到海嘯襲擊,不過近數十年來因運氣之故,復以東部沿岸海底地形坡度相當陡峭,所以東部無重大海嘯災情。台灣大學地質科學系陳于高教授則認為,也可能是海嘯非朝向台灣而來之故。
近年來,由於一九九三年七月,日本北海道發生海底地震,引發浪高二十公尺海嘯侵襲奧尻島,二百多人死亡或失蹤,致使台灣民意機構警覺到海嘯的威力,於是敦促中央氣象局,模擬各種可能的海嘯到達台灣海岸時間以及波浪高度,以供發布海嘯警報、疏散民眾與核能電廠緊急處置之用。
預測海嘯侵襲台灣的可能性
專研海嘯的許明光教授等專家指出,如果台灣東部深海發生海嘯,宜蘭地區與台東至大武兩地因其外海地形較平緩,將造成沿岸海嘯波浪明顯堆高;反之,若在台灣海峽或台灣北部的淺水區發生海嘯,以抵達新竹或金山的海嘯最大。
陳于高進一步指出,如果琉球島弧的沖繩海槽錯動發生地震海嘯,以蘭陽平原所受威脅最大;但是若台灣南方的菲律賓西岸發生海嘯,台灣西部沿岸確會受到影響。
至於位在淡水河盆地的台北市,何種情況下可能會受到海嘯的波及呢?張國棟認為,一旦琉球島弧附近發生劇烈海嘯,台北市可能遭受侵襲;中央大學水文科學研究所助理教授詹森甚至提出警告,台北市恐怕因此遭受重創。

2012年1月7日 星期六

水門と樋門・樋管の違い


水門と樋門・樋管の違い

 私達が普段、水門と呼ぶものは(日常の会話では水門なんて話題にならないかな)、土木の世界では
 水門、樋門・樋管、堰、伏越、掛樋、閘門と機能や構造で細かく分類されています。
 これらは、以下の目的で河川や用水路、溜池に設置される土木の水利構造物です。
 ~ 用水の取水、内水の排除、洪水の逆流防止、潮止め、河川の上下を水路が横断、船舶の航行、等 ~
 目的や用途に応じて施設の構造は異なり、さまざまなゲート(門扉)が取り付けられています。
水門
水門(上流から撮影)福川水門(埼玉県行田市、福川)
利根川への合流地点から700m上流に
設けられた逆流防止水門

樋管
取水樋管(右岸堤防から撮影)酒巻導水路樋管(埼玉県行田市、福川)
堤防の中に水路が埋設されていて、
矢印の方向へ農業用水を取水している。

堰
堰(上流から撮影)
古笊田堰(埼玉県久喜市、備前堀川)
埼玉県現存最大の煉瓦堰

門樋
門樋(川表:下流から撮影)
永府門樋(埼玉県吉見町、市野川用水)
伏越
伏越(下流から撮影)
小針落伏越(埼玉県行田市~川里町)
旧忍川の下を野通川が横断している

通潤橋
掛樋(水路橋):
通潤橋(熊本県)
アーチ橋の中に水路が埋設されている
水門(すいもん)は、橋のように堤防の両岸に渡って設けられることが多く、
規模の大きな施設です。水の進入を防ぐ水門には、逆流防止水門(本川の
洪水が支川に流入するのを防ぐ)や防潮水門(海水が河川に侵入するのを
防ぐ)、水位を調節する水門には制水門や閘門(lock gate)があります。
水門と外観がよく似た施設に、可動堰(かどうぜき)というのがあります。
その大雑把な識別法は、洪水の時にゲートが閉められていれば水門、
全開していれば可動堰です(笑)。水門は洪水の時に堤防の代わりとなる、
治水施設です。可動堰は利水施設の場合が多いのですが、
可動堰でも農業用水の取水堰は、頭首工(とうしゅこう)と呼ばれることが
多いので区分はさらに複雑です。頭首工とはheadworksの迷訳で、
headは水理学では水のエネルギー(水頭:水面の高さ、圧力、速度で
規定される)を指します。worksとは構造物や施設のことです。
いずれにせよ、水門とはゲートで水をせき止めることによって水位を
調節をする施設と定義できます。
なお、水門という名称が普及したのは、昭和になってからのようです。
大正期までは、門樋(もんぴ)や堰(現代とは機能が異なる:堰枠、関枠、
閘門)と呼ばれました。門樋と堰は外見や構造には大差はなく、
違いは取り付けられたゲートの形式のみです。この頃のゲートは
現在のように動力制御ではなく、門樋では観音戸や合掌戸、堰では木製の
堰板(はめ込み式)やスルースゲート(引き上げ式)が主流でした。

樋門(ひもん)・樋管(ひかん)は、河川や用水路でよく見かける施設で、
用水の取水や内水の排除を目的としています。
外観は水門に似ていますが(→樋門各部の名称)、見た目の規模は
小さく、水門との大きな違いは、樋門・樋管は堤防の中に
水路(これが本体)が埋設されていることです。直感的な表現をすれば、
土手(堤防)に埋め込まれた水が流れるトンネルとも言えます。
水路には普段は水が流れています(取水樋門は川から水路の方向へ、
排水樋門は水路から川の方向へ)。しかし、洪水時(川が増水した時)には
水路に付けられたゲートが閉められ、これによって堤防と一体となって、
洪水が堤内地(住宅地のある側)へ流入してくるのを防ぎます。(→注)
樋門と樋管には厳密な区別はありませんが、規模が小さい場合は
樋管と呼ばれることが多いようです。水路の断面が円形なら樋管!と
主張する人もいます。個人的には樋管よりも樋門の方が樋:水路、
門:ゲートと施設の形態をよく表していると思います。
古い施設では、圦(いり)、樋(ひ、とい)、圦樋(いりひ、いりとい)、樋閘(ひこう)、
水閘(すいこう)、逃樋(にげひ、とうひ?)と名付けられているものもあります。
この閘という漢字はゲートを表しています。ということは閘門って変?
なお、古い施設は名前は樋管であっても、機能的には、函渠(カルバート)、
分水工、余水吐(逃樋)であることもしばしばです。
埼玉県では樋門という名称は、明治時代にはほとんど使われませんでした。
樋門は大正以降に台頭したようです(笑)→男沼樋門、福川樋門

門樋(もんぴ)は、逆除(さかよけ)や逆除堰(さかよけせき)とも呼ばれました。
逆流防止水門(→注)の昔風の呼びかたですが、今ではこれらの名称が
使われることは、ほとんどありません。紛らわしいことに、門扉(ゲート)を
備えた施設であれば機能に関係なく、門樋と表記することもあったようです。
門樋は機能的には水門の一種ですから、樋門・樋管に較べて、通水路は
短く断面が大きいのが特徴です。また、逆流防止のために川と川が合流する
付近に設置されるので、橋の役目を兼ねることも多く、橋梁を意識した
デザインや凝った意匠(レンガを組み合わせた装飾、塔、擬宝珠、等)の
施設も見られます。門樋には観音戸(観音開きのゲート:マイターゲート)が
取り付けられることが多かったのですが、これは大きな通水断面に
合わせたスルースゲートだと、人力で引き上げ操作ができなかったからです。
観音開きのゲートは、本川の水位と流水の勢いに反応して自動的に
開閉する構造になっています。一方、スルースゲートは随意的な操作と
微妙な水量調節が可能ですが、人力で操作するので大きさが制限されます。
このため、大きな施設に人力で操作するゲートを設置する場合には、
多連アーチにして通水断面を分割したようです。→倉松落大口逆除

伏越(ふせごし)は、川と川(あるいは水路)が交差する地点に設けられる施設です。
川の下を潜って横断する水路トンネルのことで、昔は埋樋とも呼ばれました。
現代では逆サイフォンともいいます。反対に川の上を跨ぐ施設は掛樋や掛渡井、
架樋(かけとい)と呼ばれました。これは現代の水路橋のことです。水路橋で
水路が管(パイプ)のものは水管橋と呼ばれます。水路橋と水管橋の違いは、
水路橋は開水路(蓋のない水路)、水管橋は管路(パイプ)で圧力がかかることです。
日本で一番有名な水路橋は、安政元年(1854)に肥後の国(現.熊本県)に
建設された通潤橋でしょう。通潤橋は日本最大規模の石造りアーチ橋で、
しかも水管橋という極めて珍しい橋です。左の写真では、橋の脇から水が
吹き出ていますが、これは橋の維持管理のための安全装置であり、
建設当初から付けられています。
 現代では、以上の施設は鉄筋コンクリートで建設されますが(コンクリート以外は河川構造令で禁止されている)、
 明治~大正時代には、日本各地で様々な材料を使って作られました。全国的には木や石が多いのですが、
 関東地方(埼玉県、茨城県に多い)のレンガ、中部地方(岐阜県、愛知県に多い)のタタキ(.石灰に花崗岩を
 混ぜた人造石)、岡山県と熊本県の石が、地域の特色を生かしたものです。
 明治期において上述した各県は、樋門建造に関しては先進的な技術を誇り、全国的に名を馳せていたようです。
 明治29年(1896)に愛知県が発行した樋管の設計基準書:改良樋管設計書(→文献60)には、
 他県の樋管建造例として、埼玉、岐阜、三重、徳島、熊本の5県の仕様書と設計図が紹介されています。

 補足:レンガが明治時代の代表的な土木材料だったこと、そして現代の土木施設ではレンガは
 構造材として使うことは禁止されており、装飾材としての価値しかないことを認識している人は少ない。

(注)洪水時に本川の水位が高くなると、洪水流が支川へ逆流してくることがあります。
 支川は本川よりも流域面積が小さく流路も短いので、一般的に洪水時には支川の水位は
 本川よりも早い時刻に最高水位に達します。そして、支川は水位の低下も早いので、
 本川が最高水位に到達した頃には、水位は本川よりも低くなっています。
 この状態では本川から支川へ向かって、洪水が逆流入する可能性があります。

 門樋は本川からの洪水の逆流入を防ぐために、支川に設けられた施設です。
 支川の出口(本川へ合流する付近)にゲートで蓋をしてしまう仕組みですから、最も危険な
 本川洪水の流入が防げます。支川へ本川の洪水が大量に流れ込んでくると、支川の洪水は
 せき止められて流れにくくなってしまいます。さらに本川の洪水まで加わるので、
 支川の水位は急激に高くなってしまいます。一般に支川の堤防は本川の堤防よりも規模が
 小さいので、水が堤防から溢れたり、最悪の場合は支川の堤防が破壊されてしまいます。
 門樋はそれらを未然に防げるのですが、問題点はゲートを閉めている間は
 内水(支川の洪水や流域の雨水)の排除が不可能になることです。
 つまり、門樋では多少の犠牲(家屋の浸水や農地の冠水等)と引き換えに、内水は洪水が
 治まってから(本川の水位が低下してから)、自然排水していました。しかし、一般的に
 本川の洪水継続時間は支川よりも長いので、本川の水位はなかなか低下しませんでした。
 そのため、門樋の存在と運用によって、内水の湛水継続時間は長期化する傾向がありました。

 ゲートをいつ開閉させるかの判断には、その川の洪水流出特性を熟知していることに加え、
 経験と勘が必要なので、ゲートの操作は水防組合や水利組合などに属する専任の人が担当しました。
 特に大きな川や排水路の場合、その関係町村の区域が広いので(洪水の影響も広範囲に及ぶ)、
 洪水時のゲート操作に関しては、村々間で種々の規約などが取り交わされていました。
 最下流に位置する村の一存や都合で、勝手にゲートを操作することは許されませんでした。
 それでも自分の村が水害の危機に瀕している時には、村を守ろうとしてゲートを操作してしまうのが
 人間の性です。そしてその行為を巡って、村々の間で水論や出入りと呼ばれた水争いが勃発しました。

 昭和初期まで、ほとんどのゲートは人力操作でした。つまり、ゲートを閉じる時期の適切な判断を誤ると、
 本川の水位が上昇してしまい、ゲートには大きな水圧がかかり、人力では開閉することは
 不可能になってしまいます。また、早い時期からゲートを閉じてしまうと、支川の増水を本川へ
 排水することができないので、堤内地(住宅地の側)が湛水してしまいます。
 逆にゲートを閉じるのが遅すぎると、本川からの洪水(支川の洪水量よりも遥かに大きい)が
 堤内地へ流入してしまいます。

 現在では内水排除のために、樋門には排水機場が併設されることが多く、内水はポンプを使って、
 本川の水位に関係なく強制排水されます。見た目はポンプ場がない普通の樋門であっても、
 ゲートと水中ポンプが一体化したゲートポンプというシステムもあります。
 埼玉県では明治時代後期からは、排水機場(動力は電力ではなく蒸気機関、建物と樋門は煉瓦造り)が
 建設されています。一例として、明治40年に建設された排水機場の跡が、
 中川(北葛飾郡庄和町)にあります。また、明治40年には春山堀排水機場(元荒川、岩槻市)が
 建設されたという記録も残っています。(→埼玉新報 明治40年12月1日)

 なお、日本各地に逆川という河川や地名がありますが、その由来は、
 「かつては頻繁に洪水が本川から支川へ逆流した」が多いようです。
 渓流河川でもない限り、支川が本川へ合流する付近では、支川の勾配は緩やかです。
 そのような場合は、河床勾配に関係なく、水は高い方から低い方へ向かって流れてしまいます。

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